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風立ちぬ」舞台を解体 歴史伝える結核療養所

2012.09.05(21:54) 635

次のような記事がありました。

「風立ちぬ」舞台を解体 歴史伝える結核療養所
共同通信社 9月5日(水) 配信

 堀辰雄(ほり・たつお)(1904~53年)の小説「風立ちぬ」の舞台となり、多くの文化人が結核療養した旧富士見高原療養所の「富士病棟」(長野県富士見町)が、新病棟建設に伴い、今月上旬から取り壊される。近年は資料館として貴重な歴史を伝えており、管理している長野県厚生連富士見高原病院は代替施設をつくることも検討している。

 富士病棟は大正末期の1926年築の木造2階建てで、当時の病棟で唯一現存。堀は35年、婚約者と入院したが、婚約者が5カ月後に死亡。その経験から「風立ちぬ」を執筆した。

 作家でもあった療養所の初代院長、正木俊二(まさき・しゅんじ)の知人で、画家の竹久夢二(たけひさ・ゆめじ)、作家の横溝正史(よこみぞ・せいし)らが療養。映画「月よりの使者」「愛染かつら」などのロケ地にも使われた。

 70年代ごろまで患者を受け入れ、その後、2階部分を資料館として一般公開。かつての病室にベッド、結核の歴史や治療の様子を伝える写真などを展示した。

 2005年にも解体がささやかれ、住民らが保存活動を展開。中心となった雨宮照明(あめみや・てるあき)さん(81)は「文化的に貴重な建物なので残念だ」と話す。

 工事は今月中に終える予定だが、窓ガラスや窓枠、床板など一部の建材を保存し、雰囲気を伝える新たな施設に再活用することを検討している。

 資料館の荒川(あらかわ)じんぺい館長(66)は「若者を中心に多くの命、才能が失われた時代があった。患者が差別を受けたことも忘れてはならず、形は変わるが、歴史を伝える必要がある」と訴える。

       風立ちぬ
       中日スポーツ紙より

       内部
       信毎Webより

ウィキペディア(フリー百科事典)より

あらすじ [編集]

序曲
秋近い夏、出会ったばかりの「私」とお前(節子)は、白樺の木蔭で画架に立てかけているお前の描きかけの絵のそば、2人で休んでいた。そのとき不意に風が立った。「風立ちぬ、いざ生きめやも」。ふと私の口を衝いて出たそんな詩句を、私はお前の肩に手をかけながら、口の裡で繰り返していた。それから2、3日後、お前は迎えに来た父親と帰京した。

約2年後の3月、私は婚約したばかりの節子の家を訪ねた。節子の結核は重くなっている。彼女の父親が私に、彼女をF(富士高原)のサナトリウムへ転地療養する相談をし、その院長と知り合いで同じ病を持つ私が付き添って行くことになった。4月のある日の午後、2人で散歩中、節子は、「私、なんだか急に生きたくなったのね……」と言い、それから小声で「あなたのお蔭で……」と言い足した。私と節子がはじめて出会った夏はもう2年前で、あのころ私がなんということもなしに口ずさんでいた「風立ちぬ、いざ生きめやも」という詩句が再び、私たちに蘇ってきたほどの切なく愉しい日々であった。 上京した院長の診断でサナトリウムでの療養は1、2年間という長い見通しとなった。節子の病状があまりよくないことを私は院長から告げられた。4月下旬、私と節子はF高原への汽車に乗った。
風立ちぬ
節子は2階の病室に入院し、私は付添人用の側室に泊まり共同生活をすることになった。院長から節子のレントゲンを見せられ、病院中でも2番目くらいに重症だと言われた。ある夕暮れ、私は病室の窓から素晴らしい景色を見ていて節子に問われた言葉から、風景がこれほど美しく見えるのは、私の目を通して節子の魂が見ているからなのだと、私は悟った。もう明日のない、死んでゆく者の目から眺めた景色だけが本当に美しいと思えるのだった。9月、病院中一番重症の17号室の患者が死に、引き続いて1週間後に、神経衰弱だった患者が裏の林の栗の木で縊死した。17号室の患者の次は節子かと恐怖と不安を感じていた私は、何も順番が決まっているわけでもないと、ほっとしたりした。 節子の父親が見舞いに2泊した後、彼女は無理に元気にふるまった疲れからか病態が重くなり危機があったが、何とか峠が去り回復した。私は節子に彼女のことを小説に書こうと思っていることを告げた。「おれ達がこうしてお互いに与え合っている幸福、…皆がもう行き止まりだと思っているところから始まっているようなこの生の愉しさ、おれ達だけのものを形に置き換えたい」という私に、節子も同意してくれた。

1935年の10月ごろから私は午後、サナトリウムから少し離れたところで物語の構想を考え、夕暮れに節子の病室に戻る生活となった。その物語の夢想はもう結末が決まっているようで恐怖と羞恥に私は襲われた。2人のこのサナトリウムの生活が自分だけの気まぐれや満足のような思いもし、節子に問うてみたりした。彼女は、「こんなに満足しているのが、あなたにはおわかりにならないの?」と言い、家に帰りたいと思ったこともなく、私との2人の時間に満足していると答えてくれた。感動でいっぱいになった私は節子との貴重な日々を日記に綴った。私の帰りを病院の裏の林で節子は待っていてくれることもあった。やがて冬になり、12月5日、節子は、山肌に父親の幻影を見た。私が、「お前、家へ帰りたいのだろう?」と問うと、気弱そうに、「ええ、なんだか帰りたくなっちゃったわ」と、節子は小さなかすれ声で言った。
死のかげの谷
1936年12月1日、3年ぶりにお前(節子)と出会ったK村(軽井沢町)に私は来た。そして雪が降る山小屋で去年のお前のことを追想する。ある教会へ行った後、前から注文しておいたリルケの「鎮魂曲(レクイエム)」がやっと届いた。私が今こんなふうに生きていられるのも、お前の無償の愛に支えられ助けられているのだと私は気づいた。私はベランダに出て風の音に耳を傾け立ち続けた。風のため枯れきった木の枝と枝が触れ合っている。私の足もとでも風の余りらしいものが、2、3つの落葉を他の落葉の上にさらさら音を立てながら移している。
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りんむうフォトダイアリー



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